クラファンで銅像建立!福岡・博多の偉人、高場乱(たかばおさむ)とは?①亀井南冥の亀井塾

歴史
By: Bruno Cordioli

福岡出身の偉人の一人、高場乱先生ってご存じですか。

2023年には、高場乱先生の生誕190年を記念して銅像設立のためのクラウドファンディングが行われました。

そのクラウドファンディングで集まった支援総額はなんと10,510,000円素晴らしいですね。

その結果、無事、高場乱先生の銅像が福岡市博多区、崇福寺(そうふくじ)に建立され、2023年3月31日に除幕式が行われました。

しかし、ですよ。
はて?高場乱ってどんな人だっけ?と思われた方も多いのではないでしょうか。

高場先生はですね、一言で表現しますと、

「生涯男装を通した博多の女傑で、玄洋社の生みの親」

えぇ?って思いませんか。
男装?!女傑?
どういうことか、知りたくなりますよね。
…ということで、高場乱先生について紹介します。

クラファンで銅像建立!福岡・博多の偉人、高場乱(たかばおさむ)とは? ①亀井南冥の亀井塾

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Cacao

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高場乱ってどんな人?

高場乱先生は1831年、筑前国博多瓦町に生まれています。

1831年ってどんな時代だったかというと、徳川将軍は十一代目、家斉の時代。

高場先生が2歳の時、1833年には「天保の飢饉」が起こり、水野忠邦が老中になっています。日本史で習いましたね~。そのあたりに生まれたのが高場先生ですよ。

…そして、生まれた場所は「博多瓦町」。
この「瓦町」ってどこやろう、と思って調べてみたのですが、どうやらこの瓦町、現在は改名されて存在せず、今で言う祇園町のあたりになるようです。
(地名としてはもう変えられてしまっていますが、今でも祇園町には「瓦町通り」という通りが残されているようですよ。)

さてさて。
そんな博多に生まれた高場乱先生。

家系としては、「高場家」は代々眼科医で、福岡藩の藩医を務めていたそう。
そんな高場家で、高場先生は男子として育てられました

…ちょっと待ってください。

「男子として育てられた」
これ、いろんなところにさらっと書かれてますが、すごいことですよね。

だって…この時代って男尊女卑でしたよね。
その時代に女性が男性として生きていくって、かなり大変だったんじゃないでしょうか。
しかも、博多ですよ。九州ですよ。
九州男児」という言葉が残るほど、男性が強い九州、博多において、女性が男性として生きていくって…。
想像を絶する凄さじゃないでしょうか。

そんな時代背景をものともせず、先生は10歳の時に、藩にも認められ、名字帯刀も許され、公的に男として元服しています。

凄すぎます。

そもそも、名前が「」と書いて「おさむ」ですからね。
由来は「乱を治む」だそうです。
な、なんと素敵な…!

それから16歳の時には、一度結婚して(させられて?)いますが、自ら離縁。
その後20歳の時に亀井昭陽の「亀井塾」に入り、教育者としての道を驀進していきます。

(ちなみに、眼科医家系の高場先生。
往診の際は、男装をして刀をさして馬に乗り、青年を左右に従えていたそうです。
…痺れますねぇ。かっこよすぎます。)

そして、乱先生は薬用人参畑の跡地に「人参畑塾」=「興志塾」を開き、頭山満をはじめとする300人を超える多くの青年たちを教育しました。

さ、300人ってすごいですね…!
その錚々たる生徒の顔ぶれも、追々書いていくとして。

今回はまず、20歳の時に高場先生が学ばれた、「亀井塾」っていったいどんな塾だったのでしょうか?
ここに焦点を当ててみます。

亀井南冥(なんめい)、亀井昭陽の「亀井塾」で学ぶ

高場乱先生が学んだ「亀井塾」を開いたのは、亀井南冥(なんめい)
南冥は1743年生まれ、1814年没なので、江戸幕府でいくと八代目将軍、吉宗の時代が終わる頃に生まれた方ですね。

この南冥さんは、一体どういう方だったんでしょうか?

当時、福岡藩には東西、二つの学問所(藩校)がありました。

その中の一つ、西の学問所である甘棠館(かんとうかん)の学長を務めていたのがこの南冥さんです。

しかし、南冥さんの甘棠館は、朱子学派・東の学問所、修猷館(しゅうゆうかん)と対立。
さらにさらに、1790年に始まった寛政の改革で「寛政異学の禁」が発令され、窮地に追い込まれます。

…ん?「異学の禁」ってなに?と思いますよね。

これ、簡単に言いますと、幕府から「朱子学以外は学んだらあかん」と言われてしまったんです。

東の修猷館は…、朱子学派でしたからOKですね。

ですが、甘棠館が中心としていたのは「徂徠(そらい)学」でした。

…ということは…当然、「甘棠館、あかんで」と言われてしまいますね。

そんな流れも受けて1790年、南冥さんは失脚。南冥さんの長男、昭陽甘棠館を継ぎましたが、結局1798年に火災で焼失、甘棠館は廃校になってしまいました。
(その際の甘棠館の生徒はみんな、東の修猷館に編入されたようです。)

甘棠館が設立されたのが1784年ですから、わずか14年で廃校になってしまったんですね。

余談ですが、東の修猷館
福岡県でもトップを争う進学校、修猷館高等学校として今も福岡県早良区に残っています。
修猷館の伝統、すごいですね。

修猷館…道理で名前がかっこよすぎると思いました。この名前のかっこよさは、最近のネーミングセンスではないですよね。(偏見)

亀井南冥さんに話を戻します。
南冥さんは、志賀島で出土した「金印」研究でも有名。優れた教育者であったのですが…
なんと、南冥さんはその後、1814年、原因不明の自宅の火災で亡くなってしまいました。

南冥さんが学長を務めた甘棠館も火災で廃校。
南冥さん自身も自宅の火災でお亡くなりになられたんですね…。

でも、そんな南冥さんの遺志を、息子の昭陽さんがしっかり継いでいます。
昭陽さんは私塾「亀井塾」を開き、この亀井塾は1868年に廃業するまで、100年も続きました

そして、その門下生こそが、数々の偉人を育て影響を与えた男装の女傑、高場乱先生です。

亀井塾の門下生には、高場先生の他にも…
広瀬淡窓(たんそう)(1782-1856)」がいます。
この広瀬淡窓も、幕府の天領であった大分県は日田に「咸宜園(かんぎえん)」という私塾をつくっています。
なんとこの咸宜園、全国各地から5,000人近くの塾生を輩出したという、江戸時代最大規模の私塾です。

亀井塾から、高場先生の人参畑塾、広瀬先生の咸宜園…
繋がっていきますね。

弾圧を受けた「亀井塾」

こんな流れで、幕府から弾圧を受けた亀井南冥さんの遺志を継いだ「亀井塾」で学んだ高場先生。

まだまだ今日はざっと流れを見ただけなので、次回、もう少し深堀していきますね。

高場先生に関してはこんな本もありますよ。(わたしもまだ読めてないけど…)

ご興味のある方はどうぞ。

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