スペインの首都、マドリードにある有名な観光スポットといえばマヨール広場。
マヨール広場にある銅像って誰?あの像にまつわる歴史やエピソードを知りたい。
という方のために、マドリードにあるマヨール広場の像の歴史についてまとめました。
【仰天】スペイン、マドリード マヨール広場の像の歴史
マヨール広場を訪れると、一つの像が目に入ります。こんな感じ。(↓)
これは『フェリペ三世』の銅像です。
※現地に行ったとき、きれいに撮れた写真がなかったので、この画像はwikipediaより拝借しました。
「フェリペ三世?誰?」と思う方も多いと思いますので、まずざっくりとマヨール広場の大まかな歴史についてまとめます。
マヨール広場の大まかな歴史
マヨール広場は、元々市場が開かれ、商業の中心部として栄えていた場所だったようです。
このマヨール広場の建設は、1560年に計画されました。
1560年といえば、スペインが「太陽の沈まぬ国」と呼ばれるほど、国として繁栄していた頃です。
スペインの黄金時代ですね。
そんな黄金のスペインを統治していたのは「ハプスブルク家」という王家で、国王は、ハプスブルク家の「フェリペ二世」。
マヨール広場の銅像のモデルは、フェリペ「三世」ですから、この黄金時代に君臨した国王、フェリペ二世の息子ということになります。
さて。
マヨール広場の建設を指示したのは、スペイン黄金時代に君臨した国王、フェリペ二世でした。
しかし、実際に建築が開始されたのは、1617年。
この銅像のモデルとなった、二世の息子、「フェリペ三世」の時代になってからでした。
ということで、銅像として今もマヨール広場に佇むフェリペ三世は、マヨール広場の建築が開始された時の王様だったんですね。
マヨール広場は建築が開始されてから、2年ほどで完成。
しかしその後、広場は3度の大きな火事を経験し(1631、1672、1790年)、その度に再建。
現在私たちが目にしているのは、1790年以降に再建された状態の広場のようです。
銅像のモデル、フェリペ三世はどんな人物だった?
次は銅像となったフェリペ三世に焦点を当てましょう。
はたして、どんな人物だったのか、気になりますよね。
…このフェリペ三世は、英語で『Philip the Pious』としても知られている王様です。
「Philip」は「フェリペ」という意味ですが、その後についている「the pious」の意味を調べてみると?
『敬虔(けいけん)な、信心深い、信心ぶった、宗教にかこつけた、偽善的な』
…日本語のwikipediaでは、「怠惰王」と訳されていました。
…アレ?ちょっとイメージと違いますね。
マヨール広場に今も銅像があるくらいだから、てっきり人気のある王様かと思いきや、あまり人気のある王様ではないようです。
というのも、
有名な父、フェリペ二世の時代に、スペインは大帝国時代を謳歌しましたが、息子の三世の時代になって、徐々にスペインの力が衰退を始めたからだそうです。
もちろん、他にも色々理由はあるようですが、国が衰退を始めた時の王様であるという背景もあって、あまり人気のある王様ではなかったようです。
謎の臭いを放つ「呪われた」銅像?
さて、フェリペ三世ご本人のことは、かなり大雑把にですが、わかりました。
ではこのフェリペ三世の「銅像」のエピソードや歴史を紐解いていきましょう。
まず。この銅像が作られたのは1616年で、現在の位置に置かれたのは1848年。
そしてなんと、この銅像は長い間、「呪われている」と言われていました。
(…ちなみに、「呪われた」って英語で何て言うか気になりませんか。
よく使われるのが、『Curse』ですね。edをつけて、「Cursed statue(呪われた像)」といった風に言えます。こういう時ついでに覚えておくと勉強になりますよね~)
では、この銅像がなぜ、そんな風に言われてきたかというと、この銅像からは、ずっと謎の「臭い」がしていたから。
それも、良い匂いではもちろんありません。
何の臭いか分からないので、信心深い当時の多くの人々は、銅像が呪われていると本気で思っていたようです。
そして、そんな状態がなんと、1936年頃まで続いていたといいますから…驚きです。
ほぼ100年近く、異臭を放ったままだったんですね。
像は破壊されかけたが..
そんな「呪われた像」の事態が動いたのは1936年。
この年は、スペインで独裁者として知られるフランシスコ フランコ(1892-1975)が台頭し、戦争が始まった年でした。
この時、多くの銅像が破壊され、このフェリペ三世の銅像も破壊されかけたようです。
しかし、完全には破壊されませんでした。
「呪われた」銅像なら、真っ先に破壊されても良さそうなのに、なぜでしょうか?
1936年、多くの銅像が破壊される中、なぜフェリペ三世の銅像は破壊されなかったのか?
答えは、この像を破壊し始めた時に、
沢山の小さな骨が、銅像の中から散らばって出てきたから。
それをみて、人々はびっくり仰天。怖くなって、それ以上の破壊は中止されたそうです。
謎の臭いを発する銅像から、沢山の謎の骨が出てくるわけですからね。
これはびっくりする!驚きます。
たくさんの小さな骨が散らばって出て来たため、銅像の破壊は中止された。
特に、今とは時代も違いますし、信心深い方々にとっては、尚更です。
「この銅像は本当に呪われていたのか?!」となり、これ以上破壊したくない!と思う気持ち、わかります。
しかし、一体どういうことでしょうか??
小さな骨は、なんだったのでしょう?
銅像の中の小さな骨
あとになってから、この銅像の中の小さな骨は、沢山の鳥たちの骨であったことが判明します。
…かわいそうに…。
しかし、鳥の骨、ということは、ですよ。
長年銅像から放たれていた謎の臭いの正体も、ここで判明します。
本当に鳥がかわいそうですが、ここで臭いの正体がわかりましたね。
像の内部にたくさんの鳥の死骸があったから、その臭いがしていたということです。
ふぅ。
でも、よく考えてみると..「あれ…?」と思いますよね。
まだ何も解決されていないばかりか、新たな謎が一つ生まれています。
そもそも。
「一体なぜ、鳥たちの死骸が大量に像内部へ集められていたのか?」
ここが再び、謎として残されました。
見つかった鳥の骨は大量でした。
長年臭いがしていたのも頷けます。
一体、どういうことでしょうか。
「呪い」の正体
そして、この最後の謎は、1950年代に銅像が修理された際に、銅像の馬の口の小さな穴が発見されたことから、解明されました。
…というのは、かわいそうに、鳥たちはその小さな穴を通じて銅像の中に入ることはできても、その角度と穴の位置、そして暗さから、外に出ることができなかったようだ…ということが分かったのです。
長年の間、そうやって多くの鳥たちが、銅像の内部に迷いこんでしまっていたのですね…。
そのため、迷い込み、出られなくなってしまった沢山の小さな鳥がそこで死んでしまいました。
それが銅像から発せられていた長年の臭いの元であり、銅像内部から見つかった、たくさんの鳥の骨の正体だった…ということのようです。
(想像しただけで、胸が痛みます…。)
もちろん、その後、その穴はきっちりと閉じられました。
(もっと早く閉じてよ泣)
そして、今もマヨール広場にて飾られているのが、穴の閉じられた状態のこの「フェリペ三世」の銅像だそうです。
以上が、このマヨール広場にある「フェリペ3世」の銅像の歴史です。
おわりに
飾られている銅像にそんな歴史があったなんて、ちょっと驚きますよね。
マヨール広場を訪れた際は、そんな歴史に思いを馳せながら、銅像を眺めてみてはいかがでしょうか…。
このマヨール広場の迫力は凄まじく、特に夜が、圧巻ですよ。
しかし…穴が閉じられて、本当に良かったです。
鳥のことを思うと本当にかわいそうで、胸が痛みます…
ヨーロッパの歴史というのはまた、本当に凄まじいものがありますね…。
そんな歴史を思わせるようなエピソードでした。
ちなみに、このエピソードは、マドリードを訪れた際に参加した、ウォーキングツアーのガイドさんから教えていただきました。
歩きながら、その町の歴史やエピソードについて知ることができるので、ウォーキングツアーって楽しいです。
そのツアーには他にも多くの方が参加されていましたが、みんな参加者の方が、このお話に特に良い反応(「Oh no!」みたいな)をして、聞き入っておられました。
嘘のような話で、びっくりしますねぇ〜。事実は小説より奇なり、ですね。
さて、最後に余談ですが、
「ヨーロッパの歴史って複雑すぎてわからんけど、ちょっと興味あるな」という方、スペイン王家の歴史が知りたいと思った方は、名画で読み解く ハプスブルク家 12の物語 (光文社新書)がとても面白かったです。
この銅像の主、フェリペ3世は、ちらっとしか出てきませんが。笑
私は最初に読んで、はまってしまいました。
「怖い絵」シリーズの作者の方が書かれているんですよね。その「怖い絵」シリーズも好きです。
難しく入り組んだ世界史、しかも名前が同じ王様が多すぎて、全くわけが分からない歴史を、名画を見ながら知っていけるので、とても興味深くて、勉強になりました。!
歴史だけではなくて、西洋絵画や、芸術が好きな方にもおすすめです。
歴史から、沢山学んでいって今に生かしていけると良いし、背景のエピソードをちょっと知ることで、また違った見方がしていけるのが良いですよね。