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クリムトとは?作品「接吻」と「ユディトI」の魅力、日本の影響

      2020/10/26

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クリムトとは、どんな人?作品「接吻」や「ユディトI」の魅力とは?
クリムトは日本の影響を受けていたの?

こんな疑問にお答えします。

本記事の内容

  1. クリムトの人生
  2. 「接吻」クリムトの魅力1.繊細な幸福感
  3. 「ユディトI」クリムトの魅力2.女性の美、色気
  4. クリムトの魅力3.日本からの影響「ジャポニズム」
  5. おわりに

この記事を書いているのは、留学経験あり翻訳者。
フランスのルーブル美術館にいつか行ってみたいです。
クリムトの絵、「接吻」に一目惚れ。
そんなクリムト好きが、クリムトの魅力について、有名な作品「接吻」と「ユディトI」に焦点を当てて語ります。

クリムトとは?作品「接吻」と「ユディトI」の魅力、日本の影響

まずは「クリムト」とは、どんな人だったのか、どんな人生を歩んだ芸術家だったのか、についてまとめます。

クリムトの人生

グスタフ クリムト(Gustav Klimt)は、「接吻」などの絵で有名な、ウィーン、帝政オーストリア時代の芸術家です。
2019年には「クリムト展 ウィーンと日本1900」も開催されていました。
日本でもとても有名で人気の高い芸術家です。

そんなクリムトは、ボヘミア出身の父とウィーン出身の母の間にウィーン郊外で1862年に生まれました。
(日本では幕末、大政奉還の数年前で、長く続いた権威体制、江戸幕府が揺れていた時代ですね。)

クリムトは学校を卒業すると、弟とその友人とともに、劇場を装飾する仕事を始め、それが早くから軌道に乗り、多くの人に評価され、活躍の場を広げていきます。
若くして将来を約束されたアーティストの一人だったんですね。

しかし、1892年に、父親と、仕事も一緒にしていた仲の良かった弟が相次いで亡くなると、クリムトの作品は変化の色を強く見せるようになっていきます。
伝統的で保守的な美術と一線を画し、新たなアートを追い求めるようになっていくんですね。

そして1894-1901年頃、クリムトが「議論を巻き起こした」として特に有名なのが、ウィーン大学大講堂の天井画として依頼された、「法学」「医学」「哲学」という作品。

これはとても有名な話で、Wikipediaにもこんな風に載っていましたので、引用してみます。

「人間の知性の勝利を高らかに歌いあげるという依頼者が意図したテーマに反し、これら3作は理性の優越性を否定する寓意に満ちたもので、その是非をめぐり大論争を引き起こした」-Wikipediaより

当時、クリムトは相当批判されたようです。
是非直接見てみたい作品ですが、残念ながらこれら3つの作品は第二次世界大戦中に破壊され、現存しないようです。(なんとも残念で、勿体無いことです…。)

さて、こんな議論の渦中にあった1897年頃に結成されたのが、「ウィーン分離派」(the Vienna Secession)。
これは保守的で伝統的な芸術ではなく、新たな芸術を探し求める芸術家たちによって結成されたもの。
クリムトが初代会長を務めました。

よくクリムトについて調べていると、この「ウィーン分離派」という言葉が出てくるので、最初は見るたびに「なんのこっちゃ??」という感じでしたが、これで意味が分かりました。
要は文字通り、保守的で伝統的な美術からの「分離」を、クリムトは目指していたんですね。
だから、「ウィーン分離派」。

それからは、ウィーン大学大講堂の天井画で批判を受けたこともあってか、公的な仕事から距離を置くようになり…
1900年前後に、とうとう金箔を多用した作品を多く製作したクリムトの「黄金時代」が、幕を開けます。

この頃の作品で有名なものを挙げておきましょう。

接吻」(“The Kiss”1907-1908)
ユディトI (“Judith I” 1901)」
(もしくは”Judith and the Head of Holofernes”, 直訳すると「ユディトとホロフェルネスの首」)
アデーレ ブロッホ バウアーの肖像
(“Portrait of Adele Bloch-Bauer I” 1903-1907)
生命の木(The Tree of Life 1905-1909)」など

黄金時代の後、晩年の1910年代には、金箔を使用することは減りましたが、色彩豊かな作品を制作。
こちらの時代の作品もとても美しいです。

そして、1918年、この年のインフルエンザの大流行による肺炎と脳卒中(もしくは脳梗塞)によって、55歳で亡くなりました。

55歳。人生を駆け抜けていかれた芸術家ですね。

まとめておきます。

1862年、ウィーン郊外に生まれる
1892年に父親と、仕事も一緒にしていた仲の良い弟が相次いで亡くなる
1897年頃「ウィーン分離派」(the Vienna Secession)を結成
1900年前後 クリムトの「黄金時代」
1910年代 色彩豊かな作品を制作
1918年 55歳で亡くなる

以上、とても簡単にですが、クリムトの人生についてまとめました。
それでは、そんなクリムトの魅力に迫っていきましょう。

クリムトの魅力について、作品「接吻」と「ユディトI」を例にとり、まとめます。

「接吻」クリムトの魅力1.繊細な幸福感

「接吻」(1907-1908)は、クリムトの代表作の一つです。

この絵のモデルは、クリムト自身と恋人、エミーリ・エフレーゲ(Emilie Louise Flöge)だという説が有名です。
(確たる証拠はないようですが。)

クリムトにはたくさんの恋人がいたようですが、その中でも特に、この絵のモデルとして有力視されているエミーリとクリムトは、とても深い関係だったようで、出会ってからクリムトが亡くなるまで、恋人同士であったようです。
素敵なことですね…。

そんな特別な二人の一瞬を切り取ったとされるのが、この「接吻」。
ただただ美しいです…。

「怖い絵」シリーズで有名な中野京子さんの本、「名画の謎 対決篇」の冒頭にもこの絵が登場します。
冒頭部分を少し引用させていただきますと…。

「恋焦がれた相手に抱きしめられ、溶けてとろけたその絶頂にはもう、いつ「死んでもいい」…。

まさに、そんな溶けてしまうような幸福感を、見事に、豪華に、美しく表現されています。

クリムトの魅力1. 美しい色彩、繊細で華やかな「幸福感」

「ユディトI」クリムトの魅力2.女性の美、色気

この絵「ユディトI」(1901)もとても有名で、こちらもただただ一言、美しいです。

ただ、最初に見た人は、こう思いませんか。
ユディトって何?誰?」(ユーディトと表記されることもあります)

絵のタイトルの「ユディト」は、女性の名前です。それも、旧約聖書外典に登場するユダヤの女性の名前。
そしてこの「ユディト」は古くから題材として描かれてきた主要なテーマの一つだそう。

…というのも、このユディトには、「ストーリー」があるんですね。
このストーリーを、ものすごくざっくり書いてみます。

ユダヤの町に将軍が侵攻し、街が陥落状態に。
このままでは、街が危ない!危機的状況。
そんな時に立ち上がったのがこの女傑、ユディト。
彼女は命がけで敵陣におもむき、相手の将軍、「ホロフェルネス」の寝首をかくことに成功します!

クリムトの絵でも、その将軍の首を、女傑・ユディトは手に持っています。
まぁ、なんと勇敢な。
まさに「女傑」という言葉がふさわしい。

この女傑「ユディト」のストーリーは、多くの画家の作品に登場する有名な題材の一つ。

そしてユディトが描かれるときは、「これはユディトですよ~」と見ている人に伝えるため、「首」や「血のついた武器」がセットで描かれるというのが通例のようです。(だいぶ怖いですが…。)

ユディトの「ストーリー」に関しては、中野京子さん著の「怖い絵」の中の、「ホロフェルネスの首を斬るユーディト」(女性画家アルテミジア・ジェンティレスキの作品)の項でも語られているので、そちらを読むとよくわかります。

※ さきほどからよく出てきますが、中野京子さんの本、面白くて大好きなんです~。
(ただ、本「怖い絵」の中で語られているこのユーディトの絵は本当に、クリムトのものと全然雰囲気が違い、正真正銘の超~怖い絵ですから、注意が必要ですよ!)

で、このユディト。
なかなか「怖い」モチーフであると言えそうですが。
クリムトの手にかかると、女傑、ユディトはこう描写されるのです。
なんとも言えない、色のある恍惚とした表情が見る人をぐっと惹きつけて離しません。
女性の美しさと力強さが、なんと繊細に表現されているんでしょうか。
吸い込まれてしまいそうですね..
そしてまさにこれこそが、クリムトの魅力ではないでしょうか。

クリムトの魅力2. 描かれる女性が美しい。匂い立つような色気と独特の雰囲気

日本からの影響、ジャポニズム

さて。そんな多くの美しい作品を生み出したクリムトは、日本美術の影響を強く受けていたことでも知られています。

それは、クリムト自身のこんな名言からも見て取れます。

Sometimes I miss out the morning’s painting session and instead study my Japanese books in the open.
(ー the famous people.comより引用)

意味:
僕は時々、朝の絵画のセッションへ行かない代わりに、日本の本を開けて、勉強することがある。

クリムトの日本美術に対する傾倒、深い関係性を表す一言ですね。

クリムトの日本美術に対する情熱は並々ならぬものがあったのは間違いないようで、日本美術から、かなりの強い影響を受けていたようです。(日本人として、なんだか嬉しいなぁ。)

ところで、
クリムトがそれほど日本の美術の影響を強く受けた背景の一つには、「ジャポニズム」がありました。

19世紀末から20世紀初頭にかけて(西暦でいうと1900年代前後)、ヨーロッパで登場したのがこの「ジャポニズム(Japonism)」です。

これは日本語で「日本趣味」なんていう風にも言われますね。
日本趣味、って言われても意味がわかりにくいですが、一言で言うと、ヨーロッパで日本美術がすごく尊敬され、流行ったということです。
浮世絵などの日本美術が、ヨーロッパの芸術に大きく影響を与えたことを指しています。

そして、この日本芸術が大変注目を浴びた「ジャポニズム」旋風のきっかけの一つとして、1873年のウィーン万国博覧会があるようです。

明治政府は1873年、ウィーン万国博覧会 (Weltausstellung)へ初参加しました。
ウィーン万国博覧会で日本美術は大変な注目を浴び、大成功を収めたんですね。

ここに関して調べてみますと、「アールヌーヴォー国際会議2018」の英語資料、Svitlana Shiellsさんという美術史の教授で、ジャポニズムを研究していらっしゃる方の資料が出ていました。

その方の資料から引用させていただくと、この万国博覧会、何もせずにただ成功をしたわけではなかったようで、明治政府は、ドイツ人の学者を雇い、ヨーロッパ人の好みを考え、事前に成功のために相当な準備を行ったそうです。

The Meiji government dedicated its best resources and enormous efforts to the preparations for this event. 
(Svitlana Shiells教授 – Art Nouveau International Congress 2018より引用)

訳してみます。
明治政府は、多くの物資と努力を、このイベントの準備のために捧げた。

そして、そんな明治政府の大変な準備の甲斐あって、なんとこの時200以上もの日本の作品が賞に選ばれたそうです。
この時アメリカが受賞したのは2つだけだったのと比べると、大変な数なのがお分かりいただけると思います。
当時の日本人の方々、やりますね~。

そして、さらにこの資料を読み進めていくと、 こちらには「伊藤 若冲(1716-1800)」の作品、
特に「雪中錦鶏図」から受けた影響を、クリムトの「ソーニア・クニップスの肖像(Portrait of Sonja Knips)」という作品に特に焦点を当てて分析されていて、とても興味深かったです。

…ちょっと難しいのですが、何はともあれ。
クリムトが「日本美術」を愛し、日本美術から大きな影響を受けていたのは、間違いないようです。

「ジャポニズム」も背景に、日本の美術に強く影響を受けていたクリムト。
日本と縁が深い芸術家であったからこそ、私たち日本人は何か、クリムトの作品に魅力を感じてやまないのかもしれません。

クリムトの魅力3. 日本美術の影響を強く受けていた。

おわりに

以上、年代によってもちろん、作品の雰囲気は変わるのですが、今回はクリムトの「黄金時代」の作品に焦点をあてて、クリムトの魅力をまとめました。

最後に、クリムトの作品に関係する映画をご紹介しておきます。

黄金のアデーレ 名画の帰還(Woman in Gold)』(2015)
第二次世界大戦中にナチス・ドイツに奪われた、「オーストリアのモナリザ」とも呼ばれているクリムトの作品、「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I」にまつわるストーリーです。
戦争やホロコーストについて考えさせられる物語になっています。
クリムト作品の「その後」を通じて、戦争について知ることができました。

いつか、本物のクリムトの作品を見てみたいです!

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